プロフィール

【ニックネーム】りっく
【住んでいる街】NZ北島の静かな所
【移住前の職業】日用品メーカーのサラリーマン
【NZでの職業】自営業・投資家
【NZ滞在ビザ】ビジター→ワーホリ→ワーク→永住権(2003年取得)
【英語試験結果】TOEIC 925点→関連記事
【NZ滞在年数】合計5年超
【不動産投資歴】7年目
【保有物件推移】1つ購入→売却→3つ購入→1つ売却→2つ賃貸中
【株式投資歴歴】5年目
【保有株式種類】NZ株(個別株)米国株(ETF&個別株)オーストラリア株は売却

管理者略歴(略してません、長文です。)

20代前半〜

大学2年生の時に1ヶ月の短期語学留学を体験したことが、海外に住むことを夢見るきっかけになった。

大学を卒業後、新卒で入った会社では法人営業を担当。

地方の自治体を訪問し、名前を売り込むセールススタイルだった。

直属の上司は自分が絶対正しい独裁タイプ。少しでも逆らえば次の日から仕事は与えらない。

そんな上司にスーパーライトな口答えをしただけで、フルパワーでパワハラを受けることになった。

先輩たちも僕をかばったりすれば、割りを食うので見て見ぬ振り。

若かった僕は四面楚歌状態にメンタルが持たず、入社から2年ほどで退職をすることなった。。。

会社を辞めて、係長の顔を見なくて良いと思うと気分は多少上向いたものの、すぐに次の仕事をする気にはならなかっった。

”そうだ、好きなバイクで旅に出よう”

当時住んでいたのは関東のダサいと言われる県。

ひたすら西に向かって走り、愛知へ。

そこからフェリーで四国へ。

さらに九州、沖縄まで走った。

1ヶ月ほど放浪して、イリオモテヤマネコで有名な西表島に到着。

そこで東京からやはりバイクで走ってきたというAさんと出会う。

Aさんは足場工事の会社を経営する社長さん。年齢は30才そこそこの若社長。

高校もろくに出ておらず、裸一貫で起業して従業員を何人も雇っていた。

仕事が少しヒマになったから遊びに来たと言ってたが、東京から1日で鳥取まで走ったというからぶっ飛んでいる。

日本最南端を目指しているとき、たまたま同じキャンプサイトで仲良くなったAさん。

話を聞くと波乱万丈の人生で、不遇な境遇を跳ね返して社会で成功をつかみとった。

そんなAさんの話を聞いてるうちに、つい人生相談をしたくなり、一通り身の上話をしたのち、次の仕事をどうすべきか聞いてみたところ、

『オレのところで働けばいいよ』

今日出会ったばかりなのに。。。器のデカさが違う。。。

あいにく高所恐怖症なので鳶職は無理と伝えると、家業をやるように勧められた。

『オレにはカネもコネも、学歴も何もなかった』

『もし利用できるもんがあったらなんでも利用したかったよ』

『言葉は悪いが、お前はオヤジを利用してでもいいから、のし上がれ』

このとき、正直、家業を継ぐことは考えてなかった。

18才で家を出てからオヤジとはろくに話をしたことがなく、相性もよくない。

しかし、Aさんの言葉はなぜかずっしりと重く、心に残った。

数日考えたのち、家業をやることを決め、沖縄を離れた。

家業とはいっても、少しだけ手伝いをしたことがある程度。

仕事は一から覚えなくてはならない。

プロパンガスと設備工事の仕事はいずれもハード系肉体労働。

さらに専門資格を取らないと責任者にはなれないので、昼は仕事で夜は勉強。

そんな生活を数年続け、必要な資格が取れて、仕事もなんとか覚えた頃だった。

プロパンガス事業は同業者同士による顧客の奪い合いが激しくなっていた。

資本力が強い大手はカネをばらまく営業手法でどんどん顧客を横取りしていく。

小さな事業者は対抗手段に乏しくジリ貧に陥り、廃業する店も続出。

同業者と仲良く付き合いながら仕事をする時代ではもうない。

しかしオヤジ(社長)は頑なに昔のやり方を貫こうとする。

もともと、性格的な相性が悪いこともあってオヤジとの関係はうまくいかない。

さらに母や当時いた従業員ともギクシャク。

経営を立て直そうとするほど一人で空回りし、悩みは深くなっていくだけ。

”自分がいることで会社だけでなく家族も崩壊するな。。。”

そう思い込んでしまった僕は、家業からも去ることを決めた。

20代後半〜30代前半

ワガママな自分を反省し誰も頼ることができない場所で人生を再スタートすることを考えた。

ニュージーランドは以前行ったことがある人から話を聞いていただけだったが、ふと思い出して調べてみた。

当時のNZドルレートは1ドルが50円台。

滞在費は安く抑えらえる。

せっかちなので何か決めるとやらずにはいられないたちで、渡航するまでに時間はそれほどかからなかった。

まずは現地に慣れたり、知り合いを作りたかったので、オークランドの語学学校に3ヶ月通うことに。

そこで同じクラスになった現在の妻と出会うことになる。

学校を終えたあとはすぐに働くつもりだった。

しかし、ワーキングホリデービザは日本で申請しないと取得できない(当時)ことを知らず、凡ミス。

仕方なくいったん帰国して、ワーホリビザを取得。その後再びNZへ渡り、日本食店でアルバイトを始めた。

時給は$8.50。もちろん最低時給。

その頃から妻とは同棲を始めていたが貧乏暮らし。

借りていた部屋ではアリの行列なんかは当たり前。

ハエもいくら殺しても次から次へと入ってくるような所だった。

仕事を変えても収入はそれほど増えなかったが、妻もワーホリビザで働くようになってからようやく”まともな生活”と呼べるレベルに近づく。

滞在ビザは、ビジター→ワーホリ→ワークと切り替えながら滞在していたが、永住権を取得できたことでビザの心配をする必要はなくなった。

生活が落ち着いたことで、妻と結婚をすることにし、両親へ報告するため日本に帰国。

体育教師だった義父に会うのは初めてだったのでどうしても緊張する。

少しでも良い印象を持ってもらいたくて、髪をサッパリ切ったら短く切られすぎて坊主頭に。

義父はもう亡くなってしまったのであの時どう思ったのか聞くことはできないが、良い印象を持つはずはなかった。

しかも遠く離れた海外で、将来が心配な生活。

娘のことを思えば結婚に反対したかっただろうと思う。

何も言わずに結婚を許してくれた妻の両親には感謝しかない。

両家の親への挨拶が終われば普通は結婚式、となるはずだが、当時は貯金がなく結婚式をする余裕はまだなかった。

結婚式はできるようになったらしよう。そう二人で決めたが、それからいまだに結婚式はあげていない。

結婚生活のスタートはオークランド領事館に婚姻届を提出するという極めて事務的な作業。

つき合いを続けていた妻の元ホストファミリーの老夫婦が証人となるために、わざわざ領事館へ駆けつけてくれたのが、ただ、ただ、嬉しかった。

生活をする住環境にはなぜかこだわってしまい、最初のアリとハエがでるユニットからグラニーフラット、アパートメントと、引越しを繰り返した。

そしていよいよ3ベッドルーム(3LDK)の一戸建てへと引っ越すことに。

一戸建てに住むことは僕にとって憧れ。

庭があり、ガレージがある。リビングは広く、誰が来てもゆっくりくつろげる。

そして空き部屋はフラットメイトに貸すことができるから生活費の足しになると考えた。

そのフラットメイトBさんが後に僕の人生に大きな影響を与えることになる。

BさんはNZでは知らない人がいないほど有名な組織で働く人。

ほぼ同年代で気さくな性格をしてるので、ちゃんづけで読んでいたが、実はそんな人ではなかった。

来週は家にいないことが多いです』

とBさんがいうときは、海外出張のため。家でもノートパソコンで作業していることが多い、とにかく忙しい人だった。

あるとき、Bさんが僕ら夫婦に、ちょっと連れて行きたいとこがあるんです。というので付いて行ったら、そこは某高級住宅街の豪邸。

庭でバーベキューをして歓談している人々は、その世界の一流と呼ばれる人ばかりで、中には有名人も含まれている。

Bさんはこんな人たちと一緒に働いて、付き合ってるのかと思ったら自分の幼稚さに恥ずかしさを覚えた。

Bさんは単純に美味しいバーベキューを食べられるからと思って誘ってくれたのかもしれない。

しかし、僕には、こんな世界もあるんだから知っておいた方がいいよ、というメッセージに思えた。

プロフェッショナルとしてプレッシャーのかかる企業でバリバリ働き、一流の人々と付き合っている。

収入はあるからダウンタウンのキレイなアパートメントでも暮らせるのに、フラットして節約しているのは日本にいる家族に少しでも多く仕送りするためだった。

それに比べ、NZで生活できるだけで満足しノホホンとしていた同年代の自分。

歩んでいる人生の濃さが全く違うと思い知らされた。

このことがきっかけで、NZでのゆるい生活を卒業して、もっと稼ぐことを考え出した。

それからしばらくした後、義父が突然亡くなってしまい、急に帰国することに。

オークランド空港へ向かう途中、電話が鳴る。不動産屋からだった。

借りていた一軒家を退去して欲しいとのこと。理由はオーナーが自分で住むから。

何もこのタイミングで、と思いながら電話を切る。

借家暮らしだと追い出されるリスクがあることを知り、心底、自分の家が欲しいと思った。

義父の葬儀を終えてNZへ戻り、引越しするため大量の荷物を整理していた。

1つ1つ買いそろえたものを二束三文で売ったり、捨てなくてはならないモノもある。

虚しさがこみ上げてきたと同時に、家はどうやったら買えるのか考え始めた。

まず頭金が必要になる。そのためには今よりも稼がないとお金は貯まらない。

僕のキャリアでNZで転職先を探すと職種は限られ、稼げるかどうかも定かではない。

”日本に帰った方が、まだ稼げるチャンスはあるんじゃないか”

妻の永住権が無期限になるまであと半年。しかしそれを待つほどの心の余裕はなくなっていて、帰国することを決めた。

30代前半〜30代後半

稼いでお金を貯めることが日本に帰国した最大の目的。

しかし、家なし、カネなし、コネなしの三拍子状態。

この状況はつらくもあったが、失うものがない崖っぷちに立つと人は思い切りが出るようだ。

稼げる仕事が見つかるまでの間は妻の実家に転がり込んで、引越し屋、工場の組み立て作業、解体屋などなど日雇いの仕事をいくつもこなした。

結婚することを伝えに行った時、僕に何も言わなかった義母。

この時も何も言わずに僕らを迎え入れてくれたが、内心穏やかであったはずはない。

それでも義母は夕食にビールを出してくれた。その優しさは嬉しかったが僕は喜んで飲む気にはなれなかった。

日雇い仕事が終わると仕事探し。義母の家ではWifiがなかったためネットカフェへ通う。

地方で稼げる仕事は多くはない。東京で仕事を得ることを考えた。

家がないからできれば住み込みがいい。そんな条件を入れて検索していたらビジネスホテルの仕事があった。

さっそく履歴書を作成して、申し込みをすると面接をしてくれるという。場所は東京。

できるだけ節約しようと夜行列車で向かったが、実際それほど安くはなかった。

午後2時の面接前にカフェで昼食をとろうとしたが、サンドイッチが喉を通らない。

緊張というよりこのチャンスを逃してはならないというプレッシャーが大きかった。

この仕事は夫婦での住み込み仕事になるので面接も二人で受ける。

色々と質問をされたけれど、覚えているのは、面接官が言った妻への一言。

『昔のドラマの、おしんって知ってる?君はおしんになれそうだね』

この言葉は、「仕事は過酷だぞ」ということを意味していたのはその時はわからなかった。

稼げさえすれば勤務場所にこだわりはない。そもそも家がないのだから。

その熱意が伝わったのかはわからない。ただ、面接官に我慢強そうだというイメージは持ってもらえたようだった。

面接からまもなく採用するという電話連絡があり、さっそく翌月から研修を始めることに。

日雇いの仕事をしていた僕は仕事を辞めることに問題なかったが、妻の仕事は契約期間が決まっている。

派遣会社に事情を伝えて、辞めたいと伝えたところ『無責任じゃないか!』と詰め寄られた。

妻は辞めるまでに依頼された仕事は全て片付けると伝え、その通りスケジュールの半分の時間で仕事を終わらせてしまった。

準備は完了し、ようやくスタート地点に立つことができる。妻と義母、この二人には本当に頭が上がらない。

研修は関西圏。羽田から飛行機で発つ前に、東京で会社を経営する義兄が見送りに来てくれ、その時に10万円を手渡された。

義兄は僕らに貯金がほとんどないことを知っていて、新たな生活を始める時に多少お金がかかるだろうと配慮してくれたのだった。

この仕事は業務委託のため保証人が必要で、義母と義兄になってもらった経緯もある。

”彼らのために、どんなに辛くてもこの仕事は途中で投げ出せない”

研修は実際の店舗で行われるので研修ではなくすぐ本番。

慣れない仕事を緊張しながらこなす。覚えることも山ほどあった。

睡眠時間は一日平均2〜3時間。食事をしてる以外はろくに休憩もない。

深夜の作業を終えた時に立ったまま眠ってしまったこともあった。

研修を終えて店舗に配属されると、顧客開拓のための訪問営業に回る。

知らない土地で、聞き慣れなない方言を話す人々。

雪が降るほどの寒さに震え、インフルエンザにかかり苦戦する日々。

新店舗のオープンには一度にたくさんのお客が詰め掛けてパニック状態になった。

怒涛のスタートから数ヶ月間を乗り切るまでは必死という言葉がぴったり当てはまる。

それから3年。休まずに働き続けて契約期間を全うした。

33歳で貯金がゼロ。 あなただったらどうしますか? ①収入を劇的に増やす ②支出を劇的に減らす 僕の場合...

業務委託契約終了後に思ったのは自分のビジネスを持ちたいということだった。

フランチャイズビジネスを買い、自分の店を持つことができたが事故に遭うなどして挫折

リノベーションしている賃貸不動産の工事がまもなく終わりそうです。 全面改装だったので約1ヶ月ほどかかりました。 ...

結局ビジネスを売却することになり、その後は脱力感でうつ気味となった上、全く世話にもなってない自分の家族からダメ人間と責めらた。

NZ時代の知り合いが現地での仕事をオファーしてくれたが精神的に病んでいる。

見かねた妻が、僕を連れ出した国がフィリピンだった。

再就職に備えた語学留学が目的と家族には説明したものの、本当の理由は落ち込んだ気持ちを元に戻すこと。

30代後半でふたたび学生となり、あるとき学校の先生が自宅の夕食に僕らを招いてくれた。

狭い先生の家は貧しさ全開のボロ屋なのに、先生の両親や姉弟は楽しくて仕方ないといった感じで笑って話す。

街に出ればホームレスがそこら中にいて、物乞いをしてるのは小さな子供たち。

多くの人々が考えられないほどの厳しい環境で生きてるのを見てカルチャーショックを受けた。

フィリピンで1ヶ月半ほど滞在した後、精神的などん底からは抜け出すことができていた。

学校は集中的に英語を学ぶことができるマンツーマンレッスン。

帰国後に受けたTOEICのスコアは自分でも驚く925点だった。

しかし、NZでオファーされた仕事を受ける気がどうしても起こらなかったので、オークランドへ向かい友人に会い仕事をお断りさせてもらった。

本当はニュージーランドに住みたい。

しかし、住みたいという憧れだけでは住めないのが海外移住の現実。

まだ日本で頑張らなくては、という思いの方が強かった。

そこで、NZとのつながりをもち続けるためにオークランドで家を探すことに。

そもそも日本に帰国したのは家を買うためだったことを思い出す。

情報誌で見たことがある不動産エージェントに電話をかけて、物件を見せてもらうことにした。

熱心なエージェントは次々に物件を案内してくれ、その中で予算に合うグレンフィールドの2ベッドルームユニットを購入することにした。

日本に帰国し7年目の2012年。

ようやく念願の家をオークランドに持つことができた。

そのユニットは1年あまり賃貸したが、値上がりしたのでオークションで売却。

値上がり益を使ってサウスオークランドに戸建てを3棟購入した。

この不動産投資が軌道に乗ったことで数年後、NZ移住を実現できることになる。

40代前半〜現在

NZに戻りたい思いもあったものの、移住後の仕事や生活への不安もあり決心がつかなかった。

日用品メーカーのサラリーマンとなり営業と商品企画を担当した。

しかし、入社してから5年間給料はほとんど増えない。

一方でニュージーランドの投資から得る収益の「税額」が日本の年収を上回る年もあった。

ヤル気がなく、会社にぶら下がって愚痴ばかりの同僚たちとの人間関係にも限界に感じていた頃、通勤途中に大型トラックに轢かれそうになる。

以前も交通事故で死にかけたことがあるから、これで二度目。

三度目は本当に死ぬんじゃないかと感じた。

それからほどなくして人生について色々教えてくれた叔父が60代で病死。

人生はあっと言う間に終わると実感する。

”NZに戻らずに日本で死んだりすれば後悔してもしきれないな”

幸い不動産投資が軌道に乗ったことで、収入のめどはたちそうだった。

会社を辞める意思を固めた後は、移住に向けて事が動き出す。

それからは怒涛の日々で、小雨が降るオークランド空港に降り立った時は『ようやく辿り着いた』という感覚だった。

ひとり旅感覚で日本を飛び出した20代の時とはまるで違う、40代での海外移住。

もう性に合わない会社勤めはせずに投資を含め自分の稼ぎで暮らすことを決めると同時に『経済的自由になること』を目標にした。

貯金ゼロだった30代の僕からすれば信じられない事だが、それが近い将来叶えられそうになっている。

自分の努力だけでは到底無理だった資産を持つ事ができたのは投資のおかげと言っても過言ではない。

誰でもできるなんて思わないが、誰にでもチャンスはあると思う。

このブログで投資に目覚めてくれる仲間がひとりでも増えてくれたら嬉しいです。

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